9回目 2023年 同窓会誌
2023年度(10回目)は、2023年11月3日に物理学科同窓会を開催
18号館理学部等6階に集合11時
理学部物理学科同窓会代議員の皆さまいつも大変お世話になっております。
物理学科同窓会幹事の杉本
今年度の東海大学理学部物理学科同窓会代議員会についてご連絡いたします。
ご連絡が遅くなり大変申し訳ございません。
学内で検討した結果、今年度の物理学科同窓会(代議員会)も新型コロナウイルスの感染者がまだ充分に減少していない状況を鑑み、
前年と同様メール審議にせざるを得ないという結論に達しました。
今年度の代議員会をメール審議とさせていただく旨、ご了承いただければ幸いです。
代議員会メール審議で決定されたものは、総会で決定されたものとさせていただきたく存じます。
何卒、ご理解・ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
代議員会について
同窓会資料は、2021年度(8回目に掲載)
ご確認頂き、審議事項にご意見等ある場合は全員に返信の形で2022/11/18(金)17:00までにお送りください。
審議事項に関して、異論等無いようでしたら、ご返信いただかなくて結構です。
ご了承頂けたものと解釈いたします。
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2022年度理学部物理学科同窓会 代議員会メール審議
審議事項
PDFは、リンクはしていません
会員登録が必要
①役員について
添付資料[2023役員.pdf]をご覧ください。
異論がなければ皆さま留任となります。
②会計報告
添付資料[会計報告2022.pdf]、[物理学科同窓会残高と収支差(2021年度まで).pdf]をご覧ください。
③年会費徴収について
・今年度も総会が中止、代議員会がメール審議のため学位授与式以外での年会費の徴収はありません。
・学位授与式での年会費収集率向上のため、年会費のお願い文書とメールを事務局長より送らせていただく予定です。
今後、物理学科教室会議にてご承認をいただきます。
添付資料につきまして、いずれも取り扱いには充分ご注意ください。
以上
2022年のホームカミングデーに関しましては、ハイブリッド形式での開催開催しました。
詳細は下記HPをご確認ください。
https://www.kouyu.tokai.ac.jp/dousoukai/summary/guide/
退職された先生からの寄稿
若かった頃を振り返って ー選択と決断― |
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西嶋恭司先生 2023年10月 |
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東海大学に赴任してからあっという間の32年と11ヶ月であった.そしてこの3月に定年を迎え悠々自適の年金生活かと思いきや,継続中の科研費の研究課題に取り組みつつ(現役の学生諸君協力ありがとう!),やはり継続中の学外委員や3つの大学で非常勤講師をしているため,毎日意外に忙しく,まだ定年になったという実感が湧かない.そんなおり,同窓会誌への投稿を依頼されたので,少し自身の研究生活,特に学生時代を含め東海大学に来るまでの若かった頃を振り返ってみたい. そもそもこの世界に入った動機は,学部生の時に宇宙線の起源が謎であることを知り,それなら自分が解決してやろうと,当時宇宙線空気シャワーの研究が盛んだった神戸大学の大学院へ進んだことから始まる.本当は衛星で直接観測したかったのだが,その頃日本では宇宙線の観測衛星はなかったので,超高エネルギーという言葉に誘われて空気シャワー実験を選んだ.ところが,神戸大学の装置は小さくて,とても世界と競えないということを入学してから知った.当時,インターネットもなく,研究内容の情報はほぼ募集要項に限られていた.そんな時,指導教官から,日本ではほとんどやられていない宇宙線の伝播をやってみないか,と言われた.指導教官も先輩たちも皆実験をやっている中,まずやったことは,1人図書館にこもって毎日論文を探すことだった.聞ける人は周りにおらず当然インターネットもない時代なので,印刷された雑誌の索引を頼りに片っ端から読むしかなかった.読んでも読んでも,まだ重要な論文を見落としているのではないかという不安に駆られる毎日だった.そしてようやく伝播の方程式は書けたが,今度はそれがどうしても解けない.スミルノフの教科書を頼りに頑張ってみたが,私ひとりの力ではどうしても解けず,残り日数も少なくなってきたので,途中から数値計算に切り替え,なんとか結果を出した.その後,世界中の実験結果と比較して修士論文を書き上げたのは締め切り当日の朝であった.当然前の晩は徹夜だった.ついでに言っておくと,当時ワープロなどはなく修士論文は手書きなので,書き直しが大変であった. その後博士課程進学が決まった当日指導教官から呼ばれて,東大宇宙線研究所に行くよう言われた.研究を進めるには,その頃完成したばかりの東大宇宙線研究所明野観測所の装置の使用が必須との判断だったと思う.特別研究学生として送り込んでくれた指導教官に感謝したい.当時の宇宙線研究所は教育機関とは見做されず東大の大学院生を取ることができなかった.なので,空気シャワー部には京大から3人の学生が来ており,私を含めて空気シャワー4人組として可愛がられた(逮捕された文革四人組にちなんでいるのでうれしくはないが).博士課程では宇宙線空気シャワーの非等方性の観測で学位論文をまとめたが,インパクトが大きかったのはそれではなく,実質的な指導教官であった木舟先生と一緒に解析したCyg X-3からの超高エネルギーガンマ線の検出であった.これはドイツのKiel大学,アメリカHaverah Parkに続いて世界で3番目だったが,現在のガンマ線観測につながる成果であった.この論文の執筆中,ロシアの宇宙線研究の重鎮A. Chudakov氏が来日し宇宙線研でセミナーが開かれた.すると午前中のセミナー終了後ある先生から,せっかくだから西嶋君もCyg X-3の話をChudakov氏に聞いてもらおうよと言われた.全く予期せず何の準備もしていなかったので,昼休みに昼食も取らず慌ててプレゼンを用意し,午後に急遽セミナーを開いた.実はこれが私にとって初めての英語講演であった. |
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さて,学位取得後しばらく宇宙線研究所の研究員として引き続き空気シャワー実験を行っていたが,カミオカンデをやっていた須田先生に頼まれて,カミオカンデの低エネルギー電子事象のエネルギーキャリブレーションの一つとして252Cfの自発核分裂で生じる中性子を熱化させ,Ni原子核に吸収させることで出てくる6〜9 MeVのガンマ線を利用するテストを手伝うことになった.ところが,使用する252Cfの放射能が規制に引っかかる強いものになってきたので,怖くなって逃げ出した.このとき須田先生からカミオカンデに誘われたが,既に軌道に乗った実験であることを理由に丁重にお断りした.のちにカミオカンデとスーパーカミオカンデをやることになるとは当時全く想像していなかった. 同じ頃,アメリカに行かないかというお話を釜江先生からいただいた.高エネルギーガンマ線の半導体検出器をLawrence Berkely Lab(当時)で開発するので行ってもらえないかということだった.元々ガンマ線に興味があったのでぜひと承諾したが,その後半導体検出器は国内の浜松ホトニクスと共同で広島大学で開発することになった.これはのちのGLAST, 現在のFermi-LAT検出器である.それでも私は武者修行と称してBerkeleyに行くことを選んだ.Berkeleyでは色々新しいことに挑戦したが,今までのように指導教官がいて,先輩がいて,共同研究者がいて,という環境とは異なり,世界トップクラスの研究者集団の中でほぼひとりで仕事をするという,まさに武者修行であった.正直たいした結果は得られなかったが,ここでの経験は素晴らしいものだった.いよいよ帰国という時に,NASAのマーシャル宇宙飛行センターを訪れたとき知り合ったM. Weisskopf氏からアメリカに残る意思があるなら一緒に仕事しようとメールをもらった.彼はX線天文学ブランチのチーフで,私は少し気持ちが動いたが,当時X線検出器の開発に自信がなかったのでお断りした.今思えば残念なことだが,のちのChandra衛星につながる仕事であった. 結局日和って帰国後,早稲田大学理工学研究所(当時)で学振の特別研究員として宇宙線同位体組成を探る衛星搭載用半導体検出器の開発に従事することになった.考えてみれば,学部生時代に最もやりたかったことへたどり着いたことになる.早稲田大学で開発していた検出器は宇宙科学研究所のGeotail衛星及びNASDA(宇宙開発事業団=当時)のETS-VIに搭載予定であったが,打ち上げはまだまだ先だった.学振特別研究員の任期2年が近づいた頃,妻とも相談してアメリカに骨を埋める覚悟でアメリカのNRC(米国学術研究会議)の特別研究員に応募した.書類選考にパスし,希望する国立の研究機関が受け入れOKなら,少なくとも2年間そこで働けた.この時は,NASAゴダード宇宙飛行センターのD. Reamsとやり取りし,研究計画を提出していたので,書類審査さえ通れば,NASAの衛星実験に参加できるはずだった.
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ところが人生ってわからないものである.ある日,理化学研究所の共同研究者から電話があって,今すぐ小柴先生に電話しろ,とのこと.当時小柴先生は東大を停年退官されて東海大学の教授になられており,退職後ノーベル物理学賞を受賞されることになる.直ぐに小柴先生に電話をしたところ,東海大学に来ないかとのお誘いだった.ちょっとNRCのことが頭をもたげたが,やはり任期なしの身分は魅力で,すぐにわかりましたと返事をし,急いで履歴書と業績リストを持って小柴先生のオフィス(代々木校舎)へ向かった.なぜ小柴先生が理研に電話したかは心当たりがあって,以前科学技術庁の基礎科学特別研究員に応募した際,理研で行われた面接の審査委員長が小柴先生で,受け入れ教官が理化学研究所の松岡先生であることを覚えていてくれたのだと思う.結果補欠待機になった直後の電話で,理研からはわざと落とされたのではと疑われた.ところがその翌日,NRCから書類選考合格の通知が届いた.既に東海大着任が内定していたので,NRCは断ったが,後日談として,推薦者の1人で神奈川大の桜井先生(元NASAの上級研究員でのちの神奈川大学学長)がReamsと話したら,私が来ることを前提に研究計画を立てていたのに台無しになったと怒り心頭だったそうで,実に申し訳ないことをした.数年後,彼に久しぶりに会った時に丁寧に謝ったが,年月も経っていたこともあり快く許してくれた(と思う).以上が,私が東海大学に赴任するまでと赴任することになった顛末である.東海大学に来て以降の研究については,最終講義で話した通りで,ニュートリノ物理,ダークマター探索,宇宙線物理,ガンマ線天文,等で好きなことをやってきた. こうして振り返ってみると,何度か選択/決断の時があり,どれが正解だったかは今となってはわからない.しかしながら,宇宙線の起源を解明したいという最初の夢を叶えられなかったとしても,ほぼ一貫して関われたことは幸せであった.また,自分の反省も込めていうと,皆さんが選択を迫られたときは,ぜひ挑戦する方を選んでいただきたい.挑戦して失敗してもまたやり直せばいい.後悔するよりよほど充実した人生になると思う. |
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時間の余裕は大切
Wolfgang Bentz先生 2023年10月 |
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皆さんお元気ですか。昨年3月に定年退職をして、現在は非常勤講師を務めているベンツです。
簡単な自己紹介ですが、私は 1956 年オーストリア・ウィーン生まれで、ウィーン大学の博士課程を修了してから 1982 年に来日しました。最初の2年間は文部省(現在文科省)の奨学金を受けて東京大学の原子核物理学理論研究室にて研究をしました。その後は同研究室の助手(現在助教)になり、16年間主に大学院生との研究おとび学部学生の演習を担当しました。そして2000 年から東海大学の理学部物理学科で仕事をしております。 私の大学1,2年生頃を思い出しますと、先ず浮かんでくるのは満員の教室、学生実験での混乱、なかなか付いて行けない基礎科目の講義などです。そのとき担当の先生に直接聞いたり、参考書を買って読んだりしないで、先ずは自分のノートだけで科目の内容を理解しようとしていました。自分だけで分かり仕切れないポイントを整理して頭に入れてから、周りにいた同級生などとの話し合いを通じてその答えを探し続けました。このようにして最初の2年間を乗り切ることができました。3年生のときから教室では席の余裕もあり、先生に直接質問することもできるようになりましたが、そのときも先ず自分でどこまで理解できているかを整理してから相談、質問をしました。博士課程、そして日本で研究をし始めた頃から毎年2回物理学会に参加できて、そこの話し合いでも自分の中に残っていた疑問は自然に解けすっきりした場合も多かったです。 皆さんはこの方法についてどう思いますか。私は今でも時間の余裕は大切ではないかと思っています。東海大学で講義をするときにも自分の学生の時代を思い起こして、受講生にできるだけプレッシャーをかけないようにしています。学生一人々には自分で理解していることや理解していないことを判断するための時間が必要ですから。現在担当している講義でも試験、テストよりも学生一人一人のレポートの内容を重視しております。 添付の写真は近年のベンツ研のゼミで撮ったものです。写真に写っている学生さん達は現在会社、学校、博士課程など色々な場面で頑張っています。皆さんどうぞこれからもお互いに手伝ったり、励ましたりして下さい。 |
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